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zoom RSS シベリア抑留と父

<<   作成日時 : 2015/03/18 14:38   >>

驚いた ブログ気持玉 8 / トラックバック 0 / コメント 2

母の入院で帰郷した一週間あまり。
母の病院は弟の会社が近いので母は弟に任せ、
私はもっぱら、実家で父と過ごしていました。

母の介護が生きがいだった父は母が家にいないことで
がっくり力を落としてしまい、まるで半病人、
心配だからついていてくれとの弟に従ってのことです。

でも、こちらもケアマネさんや訪問看護のナースさんの力添えで
みるみる元気になって、元の父に戻り、安心。

ただ、外出は億劫なようなので、
日がな一日、父の昔話を聞くという地獄状態(笑)

その中で、この話は書き留めておかなきゃと思った話。
それは父のシベリア抑留体験です。
ちょっと長いけどお付き合いください。



父は満州で終戦直前に招集され、実戦に出ないまま終戦を迎え、
ロシアの捕虜となりシベリアに送られました。

シベリアで捕虜は製材か製粉工場へ行くのですが、
父は運良く製材より労働の軽い製粉工場へ配属されたそうです。

「日本軍にいた頃はバカな軍曹に毎日殴られたが、
 ロシア人の将校はオレたちを人間扱いしてくれた。
 ロシアは全く人間がいい。街の人も優しかった」


捕虜と言っても、ずっと拘束されている訳でなく、
街に遊びに出るのも許されていたそうです。
そんなとき、

「ロシア人はみんな快く煙草の火を貸してくれるんや。
 汚い捕虜の格好してても怖がらず、女の人も貸してくれる。
 日本人はそういかん。本土に帰ってから汽車の中で
 タバコの火を頼んだら、汚い復員兵やてイヤな顔されたよ」


物資がなくて、マッチも配給だったりした時代、
煙草の火を貸すというのは、今とは全く違う意味があります。



「今でも思い出す度、ありがたくて涙が出ることがある。
 それは将校の家で留守番した時のことや」


その日、父は手の指に怪我をして通常の仕事ができず、
将校の家での留守番を頼まれたのだそうです。

その将校は出かける時、
「家の食料棚にあるものは勝手に食べていい。
 お前の友達なら、家にあげて一緒に食べていいぞ」

そう言って出かけたそうです。
父は工場からお弁当を持たされていたので、それを食べ、
掃除をしながら帰りをまとうとしたのですが、
手を怪我しているので雑巾がうまく絞れず、
床をびしょびしょにしてしまいました。

しばらくして将校が友達とその奥さん達をつれて帰宅しました。
将校はそのまま家に入ったのですが、奥さん達が靴を脱いで
ストッキングで家に上がろうとするのです。
床が濡れているので、父が靴のまま上がるように言うと、
「この床はあなたが今掃除してくれたのでしょう。
 せっかくキレイにしてくれた床を土足で踏めません」
と。

「満州に居た日本人の将校の妻は酷かった。
 満人をバカにして威張り散らしていた。そういうの見てきたから
 オレはロシア人の将校の奥さん達に感動して涙が出たんや」


将校はそれから食料棚を見て、なぜ食べなかったのかと言い、
それから自分の皿からパンを大きく切り分けて、
父に渡してくれたのだそうです。



この話は今回初めて聞いたのですが、シベリアでの話は
私が子どもの頃から繰り返し聞かされました。
とんでもない寒さや危険な労働の話も聞かされましたが、
ロシア人は大抵親切で、フレンドリーだった印象です。
監視の兵隊と捕虜、血気盛んでよくケンカもしたそうですが、
捕虜だからと一方的に罰せられるようなこともなかったようです。

そこで、常々疑問に思ったことを聞いてみました。

「報道ではシベリアに抑留された人達は寒さの中
 食べ物もろくに与えられず労働させられたって聞くけど・・・」


「それはな、悪いヤツがおったんや。
 食料は捕虜にも十分配給があったはずや。
 それを一部の悪い日本人とロシア人が結託して横流ししたんや。
 ロシアもひどい食料不足やで、それで儲けたんや。
 そいつらは結局捕まったって聞いたぞ」


「どうしてそういうこと報道されないの?」

「国の政策や」



「あの頃はどこも食べ物がなかった。
 引揚船で日本に帰る時も、日本の港に入るのに
 港の外に停泊して1日待たされた。 
 日本も復員兵に食わせるほどの食料がなかったんや」

 


満州移民からシベリア、そして再び日本に帰るまで。
父は10代後半から20代半ばくらいでしょうか。
一番生産性の高い年代の男たちに、農具や工具の代わりに
銃をもたせ、農地を荒れ地に変えていく・・・。
戦争というのは本当に非生産的な行為だとしみじみ思います。



「ロシア人も満人も中国人も韓国人も
 オレが会った人たちはみんな親切でいい人ばかりやった。
 実際顔合わせれば、誰も憎みあったりしていなかった。
 戦争はしていたけれど、それは全部国の事情や」




これはあくまで父の話、
兵隊にはなったけれど、一度も前線で戦っていない、
たまたま幸運だっただけかも知れない父だからこその
話かもしれません。
人の数だけ、様々な体験や苦しみもあるでしょうから。

でも、こういう証言もあるのだということを
知って欲しくて書きとめておきます。

こんな時代だから
報道や一部の声の大きい人に惑わされることなく
隣の人の生の声に耳を傾けたい。

そんなことを考えさせらました。




あ、この他の
親戚の嫁さんの話だとか、近所の人の孫の学歴だとかの話は
ホントウ、めんどくさかったですけどね(笑)

年寄りの話はありがたく拝聴させていただきましたよ

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
うちの父も今確か89ですが、父の話を聞かされるのはやはり苦痛です。
俗にいう「壊れたテープレコーダー」状態で、いつも同じことの繰り返しです。
だけどときどき新しい情報があったりして。
ウチの父は戦争(当時)のことはほとんど語りません。
それは戦争に行ってないから。
兵隊検査で落ちたそうです。
たぶん、そのせいでずいぶんつらい目に合ったのだと思います。
そんなことをなぜか最近少しずつ話します。
もしかして、もう...?
シベリア抑留、悪い話ばかりじゃなかったのですね。
誤解してました。
(今となってはそのほうがよかったのですが)

mizu-t
2015/03/18 19:19
>mizu-tさん
戦後70年、平和な時代が続くのはいいことですが、戦争の記憶が薄れていくことに危惧を感じる今日このごろです。やはり体験者の話は、教科書で見る通り一遍の話と違い物事の色々な側面を見せてくれますね。徴兵検査を通らなかった方の話など、まず聞く機会がありませんもの。戦争という目的に貢献しなかった方たち戦時に反戦の立場だった方たちへの中傷や迫害も戦争被害ですよね。貴重な歴史の証言ですね。興味深いです。
ちか
2015/04/22 09:17

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